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    专家对战后70周年新谈话是否用“侵略”一词意见不一(附恳谈会第2次会议纪要) 发表时间:2015年03月24日 | 发表人:

    来源:共同网

     

    共同社323 近日获悉,在日本政府本月13日召开的战后70周年首相谈话第二次专家会议上,多名与会专家围绕是否将过去的大战定义为“侵略”发表见解,而他们对是否在谈话中使用该词看法不一。日本政府23日在首相官邸主页上公开了会议纪要。

    会议纪要显示,有专家表示,不管是过去还是现在,过去日本对中国所做的事情,从国际和国际法角度来看都不得不说是“侵略”,应当使用“侵略”一词。

    另一方面,也有专家以国际法上没有对“侵略”的定义为由,提出使用“侵略”一词会引来争论等慎重意见。会议纪要并未公开代理主席北冈伸一等人在开头发言后的发言者姓名。

    该专家会议是安倍晋三首相为准备战后70周年谈话而设立的私人咨询机构。

     

    20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会
    (「21世紀構想懇談会」)
     
    第2回議事要旨
    1.日時:平成27年3月13日(金) 17:30~19:10
    2.場所:総理大臣官邸4F大会議室
    3.出席者
     
    ・21世紀構想懇談会委員
    西室 泰三     日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長
    日本国際問題研究所会長 【座長】
    北岡 伸一     国際大学学長 【座長代理】
    飯塚 恵子     読売新聞アメリカ総局長
    岡本 行夫     岡本アソシエイツ代表
    小島 順彦     三菱商事株式会社取締役会長、
    一般社団法人日本経済団体連合会 副会長
    古城 佳子     東京大学大学院教授
    瀬谷ルミ子    認定NPO法人日本紛争予防センター理事長
    JCCP M株式会社取締役
    中西 輝政     京都大学名誉教授
    羽田 正        東京大学副学長
    堀 義人        グロービス経営大学院学長、
    グロービス・キャピタル・パートナーズ 代表パートナー
    山内 昌之     明治大学特任教授
    山田 孝男     毎日新聞政治部特別編集委員
     
    ・政府
    世耕 弘成     内閣官房副長官
    杉田 和博     内閣官房副長官
    古谷 一之     内閣官房副長官補
    兼原 信克     内閣官房副長官補
     
    ・有識者
    奥脇 直也     明治大学法科大学院教授
    東京大学名誉教授、元国際法学会理事長
     
    議事概要
    (1)冒頭、世耕官房副長官が挨拶し、本日の会合では、懇談会の第1回会合にて安倍総理が提示した5つの論点の一つ目の論点である、「20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験から汲むべき教訓は何か。」という点につき委員の皆様に議論いただきたいと述べた。更に世耕副長官は、戦後70年、そしてこれからのことを考えるにあたり、そもそも先の大戦が起きた20世紀とはどのような時代であったのかということを考えることは非常に意義があるところ、本日は、20世紀全体の世界史を振り返り、その流れの中で日本はどのように行動してきたのかという点につき、広い視野に立った議論をしていただきたいと述べた。
    (2)続いて、北岡伸一国際大学学長(座長代理)から、概要以下の発表が行われた。
    20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか、私たちが20世紀の経験から汲むべき教訓は何か、ということについて、政治外交史の観点からお話をさせていただきたい。まず20世紀の前に19世紀をちょっと思い出しておきたい。19世紀は、西洋における技術革新のため植民地化が世界に広がった、あるいは、弱肉強食が世界に広がった世紀であった。中国という国は、世界史をとってみても、多くの時代において世界最大のパワーであった。1830年代においてなお、中国は世界最大の経済大国であったと言われている。その中国が、英国に、しかもアヘン戦争という極めて非道な、不義の戦争に負けてしまったということは、世界史的な大事件だった。その後、その世紀の終わりまでくると、かつて植民地から独立し、元来反植民地を言わば原則にしていた米国が、米西戦争を戦った結果、フィリピンを領有するという事態が起きた。また、それまであまりアジアに縁がなかったドイツは、宣教師2名が殺されたということをきっかけに、膠州湾を租借する、そして更にそれをきっかけに山東省全域を勢力圏に入れていく。きっかけは宣教師2名の死で、山東省は今日で言うと人口1億という巨大なところをおさえにかかったわけである。
    この間、日本は、ご承知のとおり、植民地化を免れるべく、近代化を進め、そし清国と衝突し、清国と戦い、そして台湾を領有する。つまり、日本も植民地を持つ側になっていったわけである。これが19世紀の非常に大きな流れだった。
    しかし、これはあるところで反動がくるわけであり、脱植民地の動きがその後始まる。大きなインパクトを与えたのは日露戦争だった。日露戦争における日本の勝利は、ロシアの圧迫を受けていた様々な国々、フィンランド、ポーランド、トルコなどの国民を熱狂させた。そしてまた、その話を子供の頃に聞いた、あるいは父親から聞いた人たちが、第一次世界大戦後、アジア・アフリカで、植民地の独立に立ち上がった。そういう意味で、日露戦争は世界の脱植民地化の大きな動きを作り出した。
    それからわずか10年も経たないうちに、ヨーロッパ列強の間で衝突が起こり、第一次世界大戦が勃発した。これは誠に大きな、革命的な変化を世界秩序にもたらした。ロマノフ、ハプスブルク、ホーエンツォルレルンといった名門の王朝が潰れてしまい、時代が大きく展開した。その中から民族自決という動きが出てきて、この民族自決はご承知のとおり、アジア・アフリカを視野に入れたものではなかったが、しかし、当然に大きな影響を持ち、中国で五四運動、朝鮮で三一運動が起こった。
    また、第一次世界大戦は、おそらく戦場において最も凄惨な戦争であった。第二次世界大戦の方が犠牲者は多いが、戦場だけで言えば、第一次世界大戦は大変悲惨な戦争であった。そこで、戦争はもうやめようという動きはその前から始まっており、これは後で奥脇先生の話で出てくるので簡単に申し上げるが、仲裁裁判という動きがあり、そして国際連盟では戦争に訴えない義務を有するという条項が入り、そして、1928年にはケロッグ=ブリアン・パクト、いわゆる不戦条約が締結されて、国策としての戦争を非とする戦争違法化の動きが進んだというわけである。
    さて、そうやって第一次世界大戦後に到達した次の1920年代を中心とする相対的安定期についてである。これがなぜ安定して、なぜ潰れたか。この時期には、これ以上の植民地化はしない、しかし、既存の植民地については認める、という妥協的な合意が列強の間に存在した。そして、この時期の安定を支えていたのは、なんと言っても米国であり、リベラル・デモクラシーは将来の方向だというモデルとしての大きな影響力を持っていたし、米国の繁栄が世界を支えていた。ドイツなどの巨大な賠償を支えてきたのは米国の経済力であったし、アジアにおいても同じだった。日本の経済も1920年代には対米貿易によって支えられていた。その中で、経済的発展主義、すなわち経済で発展していけば、なんとか国際秩序は維持できるという観念が1920年代には存在した。
    しかし、それはやがて崩壊した。崩壊には幾つか理由があるが、例えば、反帝国主義運動、植民地からの脱却・独立という動きが非常に過激化した。一つの要因はソ連の影響力であったが、他にも幾つかの要因があった。次は、ソ連の軍事強国としての復活であり、ソ連が国際協調の全体にチャレンジをする国となり、国際政治のバランスが変わった。そして、何といっても、大恐慌が起こった。経済的発展でやっていけるという考えは、欧州で崩壊し、日本においても大きな打撃を受けた。
    その中で、モデルとしての米国に代わって、モデルとしての全体主義が、トルコ、イタリア、ソ連、そして、ドイツと出てきたわけである。そこでは、経済的発展主義は駄目だとして、アウタルキーの思想が出てくる、あるいは、レーベンスラウム(生存圏)の思想というのが出てきて、地域がないとやっていけない、それを作るために軍事的な力を使ってやっていくのだという思想が台頭し、日本はそちらの方に与してしまったわけである。
    今から考えれば、日本は、世界でそれまでにあったような脱植民地化とか、戦争違法化とか、あるいは、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失った、かつ、無謀な戦争でアジアを中心に多くの犠牲者を出してしまった。また、日本は、多くの兵士をろくな補給も武器も無しに戦場に送り出し、死なせてしまった。国民も空襲に晒されて大変な目に遭った。植民地についても、脱植民地化の流れ、大勢にのることなく、特に1930年代後半から、植民地統治が苛酷化した。こうしたことを考えると、1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。付言しておくと、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立したが、日本がアジアの解放のために戦ったという事実は、あまり確認 できない。多くの意思決定において、日本は、自存自衛、日本の自衛のために--その自衛の感覚、方向は間違っていたのであるが--多くの決断をしたのであって、アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。アジア解放のために戦った人は勿論いたし、結果としてアジアの脱植民地化は進んだが、日本がアジア解放のために戦ったということは、誤りだと考える。
    さて、なぜ日本はこうした軍事的発展主義への道を辿ったかということである。最初に指摘したいのは、戦前の日本は、まだ貧しい、農業中心の国であったということである。そこでは、土地の膨張、領土的膨張への強い欲求が、軍のみならず、国民の間にも存在していた。日本は資源がないから外に求める、あるいは、市場が足りないから外に出て行く、また戦略的にソ連との関係で縦深性が必要だから前方まで確保すべきだという考えがあった。それから、日本は今と違って、人口がどんどん増えて、これを吸収する場所がないという考え、そしてまた、国家の膨張が国家の栄光である、膨張は良いことだという考えがあった。もちろんそう考えなかった人もおり、典型的には、石橋湛山である。日本は通商国家として生きるべきであって、領土の膨張は合理的な選択ではないということを、既に1910年代から言っていたが、大きな声にはならなかった。
    第2に指摘したいのは、首相の地位が弱体であったということである。明治憲法は非常に脆い制度であり、総理大臣の指揮権は軍に及ばず、軍は強い独立性を持っていた。従って、関東軍が暴発した時に、これをコントロールするのは非常に困難だった。
    そして第3に、言論の自由が十分に無かったということである。これは特に、日中戦争が拡大して以後、顕著である。満州事変当時はまだある程度の自由はあったのであるが、1937年に日中戦争が勃発し、拡大して犠牲者が増えるに従い、非常に厳しい言論統制が及ぶようになった。
    そして、日本の軍部は非常に独善的であったし、また、当時は国際的な制裁のシステムは非常に弱かったわけである。
    これと対比して申し上げれば、戦後の安定と繁栄の条件というのは、極めて確固たるものがあると考える。戦後世界では、国連憲章2条などで、武力による国際紛争解決を禁止するという規範が確立された。戦後日本は、この規範に対して、いわば最も忠実な国である。憲法9条第1項は、これを定めたものである(ただし、9条2項は世界でも例外的なもので、1項とは違う原則である)。今日日本が、世界中の力による変更に対し、常にノーと言うという気持ちは国民の中に広く根差しているし、政府の政策をも貫いている。
    二番目に重要なのは、自由な貿易システムが発展したことである。アウタルキーなど必要ない、力で膨張しなくても資源は買えるし、輸出もできるというシステムがあるのが非常に重要である。先ほど5つの条件について言えば、今や領土を膨張させたいという人はほぼ皆無だと思う。それよりも、通商、貿易、経済によって繁栄するのだと、圧倒的多数の人が考えている。
    また、議院内閣制において総理大臣の権限は非常に強力である。言論の自由は十分に保障されている。また、国際的な制裁のシステムは強化されており、日本のような国は、そういうことはあり得ないが、仮に国際的な経済制裁を受けたら、非常にひとたまりもない脆弱性をもっており、そういうわけでここから転換して戦前のような膨張をするのは、こうした基本的な今日の日本の繁栄を支えている条件からしてあり得ないと断言できる。
    さて、今後の日本の課題は何なのか。私は以上のような観察から、自由な国際的な 政治経済システムをいかに維持するか、ということが、簡単に言ってしまえば、日本 の最も重要な課題であると考える。世界で自由な貿易が出来る限り、そして世界で民主主義、法の支配、人権、紛争の平和的解決、そうした原則が支配的である限り、日本は大丈夫だと断言できる。
    そのためには、しかし、日本は一国平和主義であってはならない。日本が受益者としてそのシステムから利益を受けるだけでなく、より大きな役割を果たすべきである。そしてそのためには、まず日本自身に弱みを作らない、日本自身の防衛力を整備することが重要であるし、また今や日米同盟は東アジア全域における安定を支える国際共用財としての役割を担っているので、これを整備しておく。さらにそれを超えて、今日日本は経済的に大きな存在であるので、国際的な安全保障に積極的に参加することが必要である。日本が単に自由な国際的な政治経済システムの受益者であるだけではなくて、それを支える側にもならなくてはならないということである。
    そういう観点で、安倍内閣における積極的平和主義というのは、大変評価できるものだと考えている。のみならず、外交の積極的平和主義、世界の紛争の解決、安定のために努力しようというのは、さらに進めるべきであろうと考えている。そしてまた、経済においても、より積極的な国際化をし、自由な国際的な政治経済システムを作る側としての努力は更に必要ではないかと考える次第である。
    以上が、簡単ではあるが、総理の第一のご質問に対する私の観察と答えである。
    (3)その後、奥脇直也明治大学(東京大学名誉教授、元国際法学会理事長)から、「20世紀からの教訓―国際法学の立場から」とのテーマの下、概要以下の発表が行われた。20世紀が激動の時代であったことを反映して、国際法の規律の仕組にも大きな変化が生じた。その特徴というのは、レジュメの1の部分に列挙しておいたが、一言でいえば、従来、国際法はその消極性によって特徴づけられ、多少の無理や不合理はあっても、概念の区分を明確にすることで紛争要因を縮減するというのが国際法の平和戦略であったと言える。これに対して、20世紀になると、その無理や不合理がかえって平和の破壊につながる状況が生じ、国際社会はこれへの対応を迫られることになる。戦争の技術の発展や総力戦の時代への移行というものが、戦争の拡大防止や戦争禁止への歩みを加速させ、また、産業社会の発展と矛盾の蓄積や、20世紀後半における南北格差の拡大は、経済社会問題への取組における国際協力を平和の不可欠の要素として認識させるようになる。また、人権意識の発展、環境保護、民主主義の価値の重要性の認識が高まった。20世紀前半が、戦争の克服と戦争に代わる平和の制度設計を中心課題としたのに対して、20世紀後半は、その課題を引き継ぎつつも、産業社会化が抱える多様な問題の解決、人間の基礎的な生存条件の充足、さらにはグローバルな課題への対応が急務となり、それに伴い国際法の規律のあり方にも大きな変化がもたらされた。これが全体的な観点である。
    20世紀の前半期の最大の課題は、戦争をどう制御するかということにあった。古い時代には、戦争の正当事由を確定して戦争の入口規制によってこれを制限する正戦論が支配していたが、それは戦争を正義と正義の闘争としてかえって正義を不毛にしてしまうため、19世紀においては戦争を「正しい敵」相互のゲームとしてとらえ、結果として、戦争の拡大防止とルール化が進められた。1899年と1907年の2度にわたって開かれたハーグ平和会議は、講和以外の問題について主要な大国間で会議が開かれたほとんど最初の事例と言われ、そこではハーグ陸戦法規が採択されると共に、国家間の紛争を戦争に至る前に解決するため国際紛争平和的処理条約(pacific settlement)が結ばれ、また常設仲裁裁判所(PCA)も設置された。現在、ハーグが「国際裁判の都」といわれるようになる起源でもある。戦争の防止と紛争の平和的解決は表裏の関係にあり、紛争の平和的処理手続の実効性が高まれば、戦争の違法化への動きも進展すると考えられたが、歴史は理想どおりには進まなかった。戦争抑止の制度設計に大きな変化をもたらしたのは第一次世界大戦であったが、それは歴史家が「ヨーロッパは大戦によろめき入った」と言うように、秘密の攻守同盟条約の網の目を通じて戦争が意図されないままに戦争がヨーロッパ全土に拡大してしまったという経験を契機としていると考える。
    第一次世界大戦後に創設された国際連盟は、同盟条約体制に代えて集団的安全保障体制の枠組を創設して、連盟規約に違反して戦争に訴えた連盟国は、他のすべての連盟国に対して戦争に訴えたものとみなし、違法な戦争に対して連盟国が一致して制裁を加える体制を作った。ただ、連盟規約は、基本的には戦争のモラトリアムを設定するにとどまり、戦争そのものを禁止してはいなかったし、「正義公道」を維持するために戦争に訴える余地も残された。規約におけるこうした戦争の抜け穴(loophole)を塞ぐために、1928年に不戦条約が結ばれ、「国際紛争解決のために戦争に訴えないこと」を取極め、「国家政策の手段としての戦争を放棄」した。もっとも、ここで放棄された戦争には、自衛のための戦争は含まれないことが、当然の了解であった。戦争を開戦から講和に至る時間的秩序ととらえる19世紀的な戦争観念の下で、国家はしばしば自己保存と国益擁護のために、開戦宣言をしないまま大規模な軍事力の行使を行った。
    いわゆる「事実上の戦争」(de facto war)が自衛権の名の下で行われた。なお、第一次大戦の反省から、連盟規約は条約の登録制度を創設して秘密条約の効力を否定し、また適用不能となった条約の再審議に連盟が関与することなども盛り込まれた。紛争の平和的処理と「平和的変更」(peaceful change)が戦争の代替制度になり得ると考えられたわけであるが、これもまたそう簡単にはいかなかった。
    第二次世界大戦後は国際連合が創設されたが、その最大の目論見は集団安全保障体制に「牙」を持たせることにあった。憲章第7章の強制措置である。しかし既に冷戦が始まっており、また、拒否権制度が導入されたこともあって、それは憲章の設計図どおりには機能しなかった。そのため国連の実行を通じて、平和維持活動(PKO)など憲章が予定しない新たな平和維持の仕組が模索され、さらにその後、多国籍軍への授権、smart sanctions、targeted sanctionsなどの制裁の新たな仕組も工夫されている。紛争の平和的解決に関しては、連盟期においては連盟の機構とは別に、常設国際司法裁判所(PCIJ)が設置されていたが、国連憲章では国際司法裁判所(ICJ)が国連の主要な司法機関とされ、特に勧告的意見を通じて、国連の新たな活動の合法性を支えている。
    国連憲章の下では、戦争の禁止ではなく、武力行使が禁止され(第2条4項)、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」(第51条)を行使する場合に限定された。憲章はその開始要件を「武力攻撃」が発生した場合に厳しく限定するとともに、安保理への報告が必須要件とされ、また安保理が措置をとるまでのいわば暫定的措置とされた。国連憲章が新たに導入した「集団的自衛の固有の権利」の意義については、憲章解釈上諸説があるが、冷戦下においてNATOやワルシャワ条約機構などの軍事同盟は、この集団的自衛権を根拠とするものと解釈されている。
    こうした20世紀前半期を通じての戦争の違法化の大きな流れの中で、従来、戦時法と平時法の二元的な時間的秩序として構成されていた戦時国際法の体系は、いわゆる交戦法規を中心とするハーグ法から、1949年のジュネーブ4条約の締結をきっかけにジュネーブ法へと変化し、武力紛争の際の捕虜、文民、占領地住民の保護へと重点が移っていく。それらは武力紛争法、国際人道法などと呼ばれるようになる。第二次大戦後におけるニュールンベルグ法廷は、ナチスの戦争犯罪を「人道に対する罪」(crime against humanity)という新しい犯罪概念によって処罰したが、それは西欧文明の中から、史上最悪の野蛮が生まれたという西欧諸国の衝撃を示すものでもある。国連の最も初期の段階にジェノサイド条約が締結されたのも、西欧法治主義の綻びを修復する意味を持っていた。その後の国連における人類の平和と安全に対する罪の法典の編纂や、安保理決議による旧ユーゴ国際刑事法廷(ICTY)やルワンダ国際刑事法廷(ICTR)の設置を経由して、国際刑事裁判所(ICC)を設置したローマ規程に至る流れの原点となっている。他方で、極東軍事法廷は、主として「平和に対する罪」(crime against peace)という新たな犯罪概念を適用したものであるが、「侵略」の定義については、国連総会の侵略の定義決議(1974)、侵略の定義条約、ICCの侵略犯罪の規定によって、定義が進められているものの、今なお国際社会が完全な一致点を見出したとまでは言えない。
    いずれにしても、二度の世界大戦の経験を通じて人類が獲得した教訓は、各国の経済的・社会的な協力の推進と人道・人権の保護が平和の最も強固な砦となるということであり、20世紀後半期において人類はこの課題を重く受け止めることになる。国連に安全保障理事会と並んで経済社会理事会(ECOSOC)が設けられたのも、連盟期の反省に基づくものであり、また後に、国連総会による人権理事会の設置にもつながる。
    20世紀の後半期において、いわゆる植民地解放闘争の激化や、AA諸国の国連への大量加盟及び南北問題の深刻化は、国際平和の観念への深刻な挑戦となった。連盟期の委任統治の制度は信託統治に置き換えられ、これを管理監督するために信託統治理事会が設けられ、植民地の自治・独立に向けて住民の漸進的発達を促進することが国際協力の重要な目的とされ、友好関係原則宣言や植民地独立付与宣言などが採択された。
    その後、特に新独立国において内戦が多発したことを受けて、1977年には非国際武力紛争の犠牲者の保護のための追加議定書なども採択された。
    経済社会問題は、従来は国家の国内統治の裁量の問題、すなわち他国の干渉を許さない「国内管轄事項」として国際法の規律の対象ではなかったが、国連では経済社会理事会と連携する専門機関(specialized agencies)を通じて、この面での国際協力が飛躍的に進捗した。もともとこれら専門機関の元となる各種の国際組織は、19世紀後半期において産業化の障害を取り除くために創設された国境を越えたprivateな連合組織をその原点としたものであるが、産業化がもたらした一国の国内では対応できない問題を国際的に調整するために国家間の協力組織に進化したものである。更に、国連の下では、南北問題の深刻化、環境問題の激化などに伴う新たな問題に対応するため、UNDP, UNIDO, UNCTAD,UNEPなどの国際機関が順次創設された。
    経済社会的な協力の構築と共に、平和のもう一つの主要な柱であった人権保護に関する国際規範の発展にも目覚ましいものがあった。連盟の姉妹機関とされたILOは、最も早い段階の国際組織の一つであり、もともとは労働基準の切り下げ競争を回避する産業国家の必要から創設されたものであるが、やがて労働人権の保護に重点が移行した。その後、世界人権宣言、国際人権規約、更に、地域人権諸条約が作られ、また、人種差別禁止条約、女子差別禁止条約、拷問禁止条約、児童の権利条約などが続々と作られて、国際人権のカタログも豊富になった。地域人権条約によって設立された人権裁判所は、国家の人権保護措置の条約適合性を判断するようになり、また国際人権規約でも個人通報制度の下で出される人権委員会の勧告に拘束力が事実上認められるようになりつつある。こうして、主権国家の国内統治の裁量は一層縮減した。また、植民地から独立した発展途上諸国の内政の不安定化により生じた難民や避難民の問題にも、国際社会は対応を迫られた。これを受けて、人間の安全保障、人道的救援権、更に「保護する責任」(R2P)ということが議論されるようになった。
    20世紀末になって、経済の面でのグローバル化が一層進展し、また環境の面でもオゾン層破壊や気候変動などグローバルな環境問題が深刻化した。グローバル化はこれまでの国際法とは異質の規律の仕組を必要とするようになった。GATT/WTO体制は、経済のブロック化を排除した公正な世界市場の創出をその目的としているが、1994年の紛争解決了解がその司法化を進めた。更に、WTOは、モノの貿易に関する国境措置を越えて、サービス貿易、その他、多様な分野を包摂して、国内統治を直接・間接に規律するようになった。国際金融の面においても、各国の政府機関の間での国内規制の協調が行われ、また国際投資仲裁のように国家と個人の間の投資紛争を処理する国際的な手続(SIDS)も整備されてきている。グローバルな環境問題はそれまでの越境損害の防止と国際責任の追及とはまったく異なる法的な仕組を必要とするようになってきている。
    現代国際社会は、国家、国内の政府機関、企業、NGO、個人など様々な行為主体が多角的な相互作用を営むことを通じて、全体として一つの国際社会を構成している。ICCもまた国際社会的な法益を侵害する国際犯罪の容疑者を国際社会が処罰する仕組である。
    このように国際社会は急速に「人の顔が見える社会」に向かっている。それに伴い、国家の対外と対内の区分が融解し、国際法と国内法とが協働する仕組がますます必要になっている。国際法は国家と国家の関係を規律するだけではなくなった。国際法は、従前そうであったように、国家間紛争の発生を防止するためには多少の不正義には目をつぶるという消極的な役割ではなく、諸国の共通利益の実現を促進する積極的な役割を担うものへと変化してきている。伝統的な国際法が「ダム」としての機能が中心であったとすれば、現在の国際法は「堤防」としての役割を果たすようになっている。そこでは、国際機関の履行・監視機関としての役割と、協力義務(duty to cooperate)が強調されている。
    この国際法の変化の要点は、国家は主権的に合意したことだけをただ守れば良いのではなくなったことにある。国際法の義務の範囲とその内容が拡張され、例えば、国連決議が法創設的な効果を持ち、一般的に受容された国際基準が国家を拘束し、多数国間条約が慣習法化してそれが締約国以外も拘束するということが、変動する国際社会において必要な規範の不足を補うようになっている。また、宇宙や南極あるいは深海底のように、条約によって客観的な領域レジームが創設され、さらに国際公共秩序の根本規範である強行規範に違反する条約は無効であるとされている。こうして国家の主権的自由と主権的合意という伝統的な国際法の根本が、20世紀を通じて徐々に説得力を失い、その傾向が21世紀のグローバル化の中では、更に進展することが予想される。冷戦の終結と共に、内政統治の責任を果たさない失敗国家(failed states)が出てきたことを背景に、私的集団が国家の安全保障への重大な脅威となる時代が始まった。米国同時多発テロ、ソマリア海賊、イスラム国、サイバーテロなど、国際社会の協力によってしか対応できない安全保障上の脅威が増大している。国連及びその加盟国には、人権や人道の保護を考慮しつつ、集団的安全保障体制を実効化するという大変に困難な事業を実施することが求められている。
    20世紀を通じて変化してきた、そうした力と正義という時に相反する2つの流れを調和させ、国際社会の公共利益あるいは共通の正義の実現を積極的に志向し、同時にその過程で国家間の関係を不安定化したり、武力紛争を発生させたりすることのない平和の仕組をどのように創り出していけるかという課題が、21世紀の国際法には課されているのだろうと考える。国際法の規律もまたそれに応じて、多層的で、概念境界の不明確な規範を共有しつつ、協力の精神に基づいてcase by caseに対応しなければならない部分が増えている。成熟した国家は、協力義務の内容を豊富化する主導権をとることが求められているのだろうと考えている次第である。
    (4)続いて、概要以下の意見が示された。
    ○20世紀の前半、特に第一次大戦から第二次大戦終結までの時期は、「19世紀文明」の崩壊の時期だった。日本は19世紀から20世紀の初頭にかけて、文明化と富国強兵、日清,日露の戦争の勝利によって、西欧列強に伍することに成功した。しかし、第一次大戦後、特に1930年代に至って、国策を誤り、民族自決、ナショナリズム勃興の時代に、内では軍部が国政を壟断し、外では中国を侵略した。さらに1940年代には、「大東亜」に覇権を求め、勝算もなく、英米との戦争に突入し、国は敗れ、国土は灰燼に帰した。
    戦後、日本は、日米同盟を外交・安全保障の基本にすえ、アジアに覇を唱えることなく、平和国家として生きる途を選択した。また、この選択の一環として、世界的にも、アジアにおいても、多くの国々の発展に協力してきた。これが,今日、日本が多くの国々で信頼される大きな理由となっている。今日、日本には、平和国家のあり方として、「一国平和主義」か、世界の平和と安定に貢献する「積極的平和主義」かの論争はある。しかし、日本が「平和国家」としてアジアに覇を求めないこと、日米同盟と国際協調主義によって自由で開かれた安定的な国際秩序の発展に貢献することについては、国民的に大きな合意がある。これを再確認すること、それが教訓として重要である。
    ○北岡座長代理のご報告について、20世紀といった場合、時間的な意味での20世紀の他、長い意味での20世紀として、1880年頃から1990年頃までを一つの時代と考えることもできるが、このような観点から見れば、北岡委員のまとめと若干異なる解釈もできると考える。19世紀はこういう時代である、20世紀はこういう時代である、と機械的に時間で区分して把握するだけでよいのだろうか。
    もう一点、日本の過去をどうとらえるかという点について、日本だけに注目してその特殊性を語っているとの印象を受けた。なぜ日本は、軍事的発展主義の道を進んだのか等、日本だけが特別な道をたどったというような説明の仕方であった。当然、第二次世界大戦において、日本の他にも敗戦国はいくつもあり、いわゆる戦勝国についても、様々なバリエーションがあるわけで、それらを考慮に入れた上で、日本の過去はどのように特殊なのか、という点について、もう少し議論があれば、さらに説得力を増したまとめになるのではないかと考える。
    ○19世紀及び20世紀については、厳密なものではなく、植民地化が非常に加速し、巨大な清国が傾き、綻びが増えてきたことを述べているのであり、厳密に線を引くわけではない。長い20世紀という考えはその通りである。
    日本について述べている部分が多いのは、諮問事項が、日本はどう行動したかいう問だったからである。背景として、アウタルキー(自給自足経済)やレーベンスラウム(生存圏)の思想が外から来たものであることはもちろんである。またアメリカの大恐慌は非常に強烈なショックであり、それによって国際秩序が破綻して、大きな政治変動が発生したことが大前提としてある。他方、こうした点を強調すると、日本が弁解している様に思われてしまうので、背景としてやや簡単にしてある。
    ○私は中学、高校で歴史を学んだが、近代史を教わらなかったので、海外に出るにあたり、自分の頭で考えようと思い、「日本が何を間違えたのか」ということを4、50冊の本を読んで考えた。歴史を学ぶ際に最も重要なのは、その当時の価値観で考えることであると思う。現在の価値観で「その当時をどうだったか」、と考えるのではなく、当時の価値観で、「自分がそこにいたらどうしただろうか」ということを考えることである。
    その意味で、北岡座長代理が仰られた「自存自衛」という考えは、そのとおりだと思う。また、少数の方であるかもしれないが、「アジアの解放のために戦った」、ということもおそらく当時の価値観であったと考える。その後「侵略」という定義が1974年頃であったと思うが定められ、後にできた定義に依って、現在の価値観で「あの戦争は侵略であった」と断定することが良いことなのかどうか、疑問に思うことがある。
    北岡座長代理が「侵略」という言葉を用いたことが報道されていたが、それを50年談話に用い、60年談話に用い、更に、70年談話でも用いるべきなのか。さらに、100年談話、200年談話といつまでも用いるべきであるのかという点についても考える必要があろう。
    そもそも、こうした歴史観(歴史認識)は一人ひとりが、それぞれに持つものだと考える。そのため、国家が、「歴史観はこうである」と断定することが良いことかどうかについても、実は歴史を学ぶ一国民として疑問が残る。
    歴史観は後世の歴史家が決めることなのか、それぞれが持つべきものなのか、国家が断定するべきなのか、こうした点についても考える必要があろう。誤解が無いように申し上げると、歴史を学ぶのは、その当時の価値観で考えるのが良いと申し上げたが、70年談話を語る場合には、今の価値観で語って良いと思う。奥脇教授が「侵略の定義が定まっておらず、曖昧である」とおっしゃっていた。北岡座長代理の歴史観はよくわかったが、歴史観については、この委員会の歴史家の間でも考え方が異なっている。定義が曖昧で、歴史家の中で異論があるものを、どういう形で談話に盛り込んでいくべきなのだろうか?そういう状況であれば、そもそもジャジメンタルな(侵略と言う)言葉についてはなるべく排除して、歴史的な事実関係を基に、誠実な反省をした形で談話を組み立てていくのがよいと思う。
    ○アジア解放のために日本は戦争をしたという点は、公文書上あまり根拠がない。自存自衛と主張して、自存自衛できなかったのであり、自存自衛のための判断を間違えたのである。自存自衛の戦争と思って行ったが自存自衛にならなかった。アジア解放のために行ったとは、結果としてはそうなったけれども、そういう意図で行動したとは言えない。具体的な例を挙げれば、東南アジアにおいて、資源上必要であったインドネシアは直轄領にし、独立させていない。日本の必要性が先に来ている。インドネシアは最初に独立させることができそうであるが、そのようなことを行っていない。これは日本が必要をアジア解放より優先させている例の一つである。
    侵略について、総理は侵略の定義はないと述べられたが、大体の定義は存在している。実効的に実施できるかは別として、一応国際社会の合意はあり、この点を間違えるべきではない。遡って適用することの是非、国際法的に強制力のある定義という点ではなかなか難しいが、歴史学者からすれば、侵略というのは、武力の行使によって、典型的には軍隊を送り込み、他国の領土や主権を侵害することである。明らかな定義が昔から存在している。それでは、日本はどうであるか。満州事変が自衛ということはありえない。日本が権益を持っていたのは南満州の点と線だけであり、それを超えた権益は何ら持っていなかった。それが北満州までを手中に収めた。これを自衛と説明できないと理解していたからこそ、傀儡国家を作ったのである。自主的に現地の住民が作った等と、当時は説明したが、いまどきそんなことを発言する者はいない。実際、満州事変は初期には自衛だと行ったが、自衛という言葉はだんだん姿を消し、生存上必要との言い方をするようになっている。
    当時の価値観から見てもこれは侵略であった。また、中国に関する九か国条約及び不戦条約の明確な違反であった。「戦争」ではなく「事変」であるから大丈夫だ等と言っても、社会科学的に見れば明らかに戦争であった。宣戦布告していないから戦争じゃない等というのは屁理屈であり、侵略でなかったとはとても言えない。法的な、厳密な実効性のある定義は定まっていない。法的な議論になぜ時間がかかるかと言えば、周辺的なグレーゾーンがあるからである。しかし、満州事変は周辺的な事態ではなく、真ん中の事態である。相手の領土に軍隊を送り込んで取ってしまった。日本が日露戦争をしなければロシア領となっていた、中国領に残ったのは日本のおかげであった等々、色々なことを言う人がいるが、だからと言って日本のものにしていいというのは全く理屈にかなわない。
    談話をどうするかという点は我々のアサインメントではない。我々はどう考えるかを言えばいいだけである。我々の文書を踏まえて総理がどういうことを入れられるかは総理にお任せすべき。我々の文書については、侵略でなかったと記すことは当時の常識から言ってもありえない。
    ○日本の特殊性については私も関心を持っている。第二次世界大戦において、ヨーロッパにとっての戦争と比べ、日本にとっての戦争は特殊な意味合いがあり、その特殊性は複数の側面から論じることができる。1939年から始まって1945年に終わるヨーロッパの第二次大戦は、最初は勢力均衡の戦争という側面があったことは否定できない。ポーランドに対する、ヒットラー・ドイツの不当な領土要求、あるいは、当時は民族自決主義等、価値観の相違による様々な論点はあったが、とにかく英仏がドイツに宣戦布告した形で戦争が始まったわけであり、19世紀型の戦争にやや近い。しかし、英仏の本当の動機には集団安全保障というシステムを守るために立ち上がるという20世紀型の側面があった。この意味で、19世紀型から20世紀型への移行がある。また、価値観の戦争でもあり、全体主義、ナチズム、とくにユダヤ人迫害等を絶対に許せない人類悪であるとの価値観が英米仏諸国にあった、ということも間違いのない事実である。特に、日本と欧州の第二次大戦を考える際に、欧州の場合は絶滅戦争であり、ジェノサイドを目的としていた。
    特にドイツの東部戦線は絶滅戦争である、ポーランド人、ユダヤ人、ロシア人を人種的に殲滅することによって、レーベンスラウム、ドイツ民族の発展を確保する、そういう戦争に、特に41年以後ははっきりと変わってしまっている。日本の場合は、絶滅戦争という戦争は一切なかったと思う。小規模な戦場の問題は色々とありえたと思うが、国家の政策として、ある民族をその人種であるという理由により絶滅する等という、いわゆるホロコースト型の戦争に、日本は全く手を染めていないということは、銘記すべきだ。では、日本の戦争がどのような戦争であったかと言えば、帝国主義型の戦争であり、満州事変は、当時の国際法に違反しており、「侵略」と言われても仕方のない勢力拡張であった。最初は権利の擁護という形で満州において始まった日本の帝国主義的膨張が、37年以後は、より帝国主義的なアジアの覇権をめぐる覇権戦争といったものとなった。これは国際法的にも、当時の価値観から言っても、国際秩序に大きく挑戦した動きであったと言わざるを得ない。
    本日のプレゼンテーションを聞いて、20世紀の大切な教訓だと思えたことは、次のことである。一つは人権と法の支配である。国内及び国際的な法の支配であり、民主主義や平和の尊重等は戦前の日本にも少しはあったと思うが、やはり法治主義と人権ということに関しては20世紀前半、特に1945年までの日本では十分に重んじられなかった。これは大きな教訓として、あるいは深い反省としてとらえなければならない。他方、奥脇教授の報告において、国際法上「侵略」の定義は定まっていないと明確に発言されていた。私も同意見であり、「侵略」という言葉を使用することは問題性を帯びてしまうということは確認しておきたいと思う。
    ○侵略と言われても仕方がないが、侵略と言わない方がいい、との発言があったが、私はやはり言うべきであると考える。覇権戦争についての発言に同意する。日本がジェノサイド戦争を戦ったなどというのは、ありえない話であると思う。人権、法の支配についての発言にも同意であり、日本は不十分であった。他方、現在の日本の周辺にあるいくつかの国に比べれば、戦前においても法の支配は存在していた。
    ○当時の価値観に即して考えた方が良いとの発言があったが、当時の価値観ではなくて、振り返って、どういうふうに客観的に判断するかということが現在問われていると考える。いずれにせよ、総理が談話を出す以上、日本政府の主張となるのであり、当時の価値観ではなく、現在我々が過去を振り返ってどのように評価するかが問われていると考える。この点から述べれば、やはり過去の日本が中国に対して行ったことは、過去及び現在において国際的に見ても、国際法から見ても、「侵略」と言わざるを得ず、「侵略」という言葉を用いるべきでないかと考える。今まで用いてきた言葉を用いるかどうかという点だけをとらえると、矮小化される議論になってしまう面はあるが、他方、用いないことによって何が起こるか、どのような誤認が生じるか、ということについても考えなければならない。もう一点、大恐慌の影響は非常に大きかった。大恐慌が発生した時点では対応をする余地があったと考えるが、国際社会が対応を間違えてしまった点、つまり、国際協調をせずに、一国主義に走ってしまった。戦後日本は国際協調のシステムに貢献してきたと思うので、この点は教訓として重視すべきである。
    ○今から振り返ってみて侵略であったという発言があったが、その通りである。他方、当時の価値観から見ても侵略であり、当時の価値観でも十分に分析可能である。大恐慌のインパクトは本当に大きなものであった。当時、確かに日本も間違えたが、国際社会もいろいろ間違えたということは、付け加えてもよいのではないか。米国を中心とする対応は非常に間違いであった。他方、向こうが間違えたのは向こうの主権の範囲内であったが、こちらは持たざる国として膨張してしまった。
    ○国際社会において、価値に対する考えは進化(evolve)するものと考える。「侵略」の議論にしても、幣原喜重郎とか西園寺公望たちは排除されて、田中義一が、「我が国は島国的境遇を脱して大陸国家を為すべきである」、つまり日本は島国だから満州をとれと。これは法的な意味もさることながら、政治的に見ても「侵略」以外の何ものであろうかと思う。「いや、あのときは日本の資源が色々と制約があったので戦争は仕方がなかったのだ」というような判断を、今の価値観を持つ我々が主張することにはやはり違和感がある。あの時、とにかく軍部は滅茶苦茶やっていた。「空に神風、地に肉弾」などと言って、鉄鋼の生産量は20倍、船や飛行機の生産力は5倍という米国に、精神論だけで突っ込んでいった。石原莞爾の「世界戦争終末論」のような根拠のない議論で突っ込んでいく。そこには陸軍のエリート主義と、自己正当化の議論があり、およそ近代国家が遂行する戦争の体を為していない格好で突っ込んでいった。そういうものを作り出した硬直的体制が現在も残っていないかどうか、そうした点にも関心がある。
    ○価値は進化するという点については同感であるが、当時の価値から見ても問題だと考える。
    ○歴史的な意味での侵略の問題という点で戦前の日本の行動は当時の国際法の視点から言っても、歴史的、政治的な面からは侵略的な側面はあったと認めざるを得ない。真珠湾攻撃も奇襲なら経済制裁を軍事攻撃によって打破しようとしたわけであるから、やはり侵略である。しかし同時に、大事なのは第二次大戦の連合国側にも侵略はあった、侵略といえる行動はあったという事実を再確認しておくことである。特にソビエトの行動には日本もやらなかった驚くべき侵略行動が多々ある。バルト三国の併合、ポーランド併合、あるいはフィンランド戦争、それから第二次大戦末期における満州から樺太・千島における行動などである。今、北方領土問題がある背景にはソビエトによる国際法違反、明白な侵略行為がある。ただ、そうであっても、他の国も悪かった、だから悪いのは我が国だけではないというような議論はやはりすべきではない。しかし、個人倫理と異なって、国家行動の評価というのは相対性というものが本質であり、それが核心の部分になければ、歴史は成り立たない。やはりソビエトだけではないが、連合国側の侵略行動というのは、その後の冷戦の原因となっている。我々が20世紀を評価しようとしたら、冷戦の問題、ヤルタ体制といわれる問題にかかわってくる。よって侵略という問題を今取り上げることの歴史的評価としての妥当性を考える必要がある。表現をしばるということは、80周年、100周年を迎えるにあたって、さらに均衡を失した議論になっていくことは明白であろう。したがって総理大臣が何かを認定するような言葉にこだわることはもはや不適切であると考える。
    もう一つ言えることは、日本は「人道に対する罪」では東京裁判でも罰せられていない。「平和に対する罪」、侵略戦争を問われているわけであり、この点は専門家の玄人の世界でははっきりさせなければならない。しかし、近年アジア諸国やあるいは欧米において侵略戦争という言葉の含意の中に「人道に対する罪」もどこかに含んでいるような意味も帯び始めている。また冷戦終焉後、社会主義体制が大規模な人権侵害をしたことが明らかになってきたこととどこか重なるところがある。したがって、侵略について語った村山談話が発出された時期の世界情勢と今日のそれとでは変化が生じていることを銘記しておかなければならないだろう。さらに現在、例えば、ウクライナの問題にしろ、南シナ海の問題にしろ、侵略という言葉はその国の現在と将来に再び非常に重大な意味を帯び始めており、現実の国際政治に非常に大きなインパクトを与えかねないような冷戦後の国際社会の秩序変化がこの数年から十年位の間に起こっているのではないかと思う。したがって、侵略という用語を不用意に使うことの意味合いについてはこの点からも考えなければならないのではないか。
    ○この会議は20世紀を振り返り、21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者会議である。したがって、過去を客観的に見てあの国も悪いことをしていたということを書くことはあまり意味はない。多少は触れるべきだが、あまり書くと、他の国も悪いことをしているのだから、自分も悪いことをしたのは仕方ないと言っているととらえられかねない。懇談会の成果は学術的な文書としてまとめたいと思うが、自らの糧にするものだと考える。我々は失敗から学ぶのである。宣伝したり、人を批判したりするためではなく、我々はなぜ失敗したのか、自分たちのために考えて、自分はどこで失敗したのかという観点から日本が失敗したいくつかの条件を挙げることが重要だと思う。
    ○北岡座長代理のレジュメで、戦前、なぜ戦争への道をたどったかという5つの条件を挙げた。そのうえで、そうした条件が今は見当たらないので、現在の日本は戦争を起こすような国にはならないのだと述べた。これは説得力のある指摘である。一点思うのは、この五つの条件がなくなる過程として、日本は敗戦国になるわけだが、終戦直後どういう経緯があったのか、という考察があってもいいのではないか。つまり、日本がどれだけ自助努力したのか、あるいは、例えば「日本国憲法は米国に押し付けられた」といった指摘があるように、米国の役割については異なる評価がある。どちらかというと戦後の日本は、特に終戦直後は、米国によって国家の再建が果たされたのだという見方が多かったと思う。他方、今年の初めに読売新聞が掲載した戦後70年の連載の冒頭で、キッシンジャー氏が「日本の再興は日本人自身がやってきたものである、米国が日本の国をつくったという米国の評価が間違っていた」と発言するなど、海外でも再評価の見方がある。日本が国家再建をする際の日本自身の努力、そして米国がどのような役割を果たしたのかという点について少し考察があってもよいのではないかと考える。
    ○議院内閣制で、総理の権限が強くなった。これは米国によるものである。十分な言論な自由などもそうであろう。ただし、キッシンジャー氏が述べている通り、米国人には日本を米国が作ったと考えている人が多いが、これは大きな間違いである。ポツダム宣言においても、日本における民主的傾向の復活強化と書いてある。当時はジョセフ・グルーなどはそれがわかっていた。右も左も含めて戦後日本はアメリカが作ったという考え方があるが、それは間違っている。日本の本来ある力が軍や変なシステムによってきちんと発現しなかった、それらから自由になったらうまくいくといったのが吉田茂であり、石橋湛山である。軍がなくなったら日本がうまくいく、植民地の重石がなくなったらうまくいくと彼らはいった。それは正しかった。
    ○アジア解放のための戦争ではなかったという北岡座長代理の報告のポイントについて、この点のご説明は分かるが、第一次大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において日本は牧野伸顕の人種差別撤廃提案を行ったが、否決されたといういきさつがある。しかも昭和天皇は独白録でこれが戦争の遠因であったと述べている。当時、このような自負はあったわけで、自存自衛としか言っていないという説明よりはもう少し工夫した説明をしてアジア解放の戦いでなかったと否定する必要があるのではないか。
    ○アジア解放のための戦いでなかったという点については、アジア解放のための戦争をしたということを言う人はよくいるが、よく政策決定を見てほしい、そんなことは必ずしも言えない。個人的に努力した人はいるが、我々は過去を振り返って未来の自分たちの糧にしようという点からするとアジアのためにやったと特筆大書すべきではない。人種差別撤廃提案もそうである。明治の先人たちはいろいろなところで差別される中、ただ一つの非白人国として台頭するために賢さをもってやってきた。耐え難きを耐えてやってきた。その中で第一次大戦のパリ講和会議の際の人種差別撤廃提案の不採択もあった。はなはだ不本意なこととして昭和天皇も言及されている。しかし、そのあと、日本も国際協調システムに入っていっている点も着目する必要がある。たとえば、アメリカの排日移民法のようなことがあったのはけしからんと書くのは、我々の将来の糧にして自らの指針にしようという態度からはあまり意味がないと思う。
    ○歴史をとらえていく場合に、大きな変化、変革、変動を長期の因果関係でとらえるか、中期あるいは短期でとらえるかで見える性格が違ってくる。かつて李鵬氏が中国の首相であったとき、中国を訪れた当時のメージャー英国首相が人権問題について提起したところ、李鵬首相はアヘン戦争以来、中国がイギリスに人権問題で云々される覚えは全くないという発言をしたが、それは中国にとっての侵略や植民地化の因果関係をアヘン戦争からとらえていることを示している。アヘン戦争当時においては、日本は近隣国家であり、高杉晋作はアヘン貿易などの問題を議論し、上海を訪れて大きなショックを受けている。日本は被害をうける側の論理を自らのものにしている。アヘン戦争についてオランダ風説書などを通じて直接、間接に情報が日本に入ってくるが、それはまさに不当な戦争、そこで人々は煙害、アヘンの害によって健康が損なわれる、日本が十分心しなければならないということで、中国の被害や教訓を自らのものにしたという点が重要である。つまり、歴史をアヘン戦争に遡及して考えるとすれば、それはやはり英仏をはじめとした欧州の植民地化や侵略の問題はどうなるのかということにもなる。
    中期の要因、短期の要因ということで語れば、満州某重大事件や盧溝橋事件、その間の満州事変といった要因の中で日本がこの問題を取り上げるとき歴史のとらえ方としてみると、我々自身が被害者、加害者という観点だけで考えるのは十分ではない。長期的な歴史を理解する構図があり、さらにそこに中期の要因としての我々の主体的な関与、ある意味では責任、反省や教訓という点も理解しなくてはならない。そうしたものは当然複合的に分析されなければならない。
    ただ、短期の要因として、戦後70年の日中関係なり近隣諸国との関係、国際貢献の厚みを考えた場合、日本の歴史は以前とは異質な形で展開している。そこに教訓と反省とともに歴史をとらえる日本なりの見方が出ているともいえよう。このように総合的に見ていく歴史の視座というのを出していければということを考えている。
    ○今日はどちらかといえば20世紀を振り返るという議論である。たしかにこの懇談会でそこに全く触れないで安倍首相の談話が出てくるのはよくないと思う。先の大戦によって近隣諸国に多大な苦難を与えたことを反省し、謝罪の気持ちを忘れないというような表現をするのか、あれは絶対に侵略だ、侵略でないというところから始めるのか、この表現の仕方のところが非常に大事と考える。中長期的にはああいうこともあったけれども、やはりアジア、周辺の方々と一緒になって次の世界を作っていくというところでずいぶん努力した、ということを思い返しながら、これからの日本の世界におけるあり方とについて考えたいというようにした方がよいのではないか。ここで侵略だったのか、そうでなかったのかという議論は我々の考え方を整理するにはよいのであるが、ここら辺をとりまとめて表現するにはどうしたらよいのかという点を考えている。
    ○今回の談話をそもそもどういう目的で出すのか。過去の価値観に従って出すのであれば、戦後70年に出す必要はそもそもないと思う。今回、未来志向というものが謳われている。21世紀の価値観を日本はどうとらえていて、それに対してどういう国家として世界に貢献していくのかということを謳うのであれば、その立場で過去に行ったことをどのようにとらえているのかということを世界に示すことが非常に大事だと思う。同時に説明するときにその説明がロジカルかつ明快、簡潔でないと世界の方たちに伝わらない。玄人的な部分でいろいろな議論があるのはわかるが、その辺の工夫が必要である。
    次回が日本の国際貢献についてなので、短い説明をさせていただくが、北岡座長代理の資料のうち6、の今後の課題において、日本の安全保障への積極的参加、外交的イニシアティブの強化という点があげられており、奥脇先生のペーパーにも昨今の問題として私的集団によるものが多くなって世界が苦労していると点が指摘されているが、そういう戦争や不安定化を誘うようなアクターも多様化しているという点に対して、世界全体の多様なアクターによって解決する必要があるという潮流が世界的にも主流になっている。日本はODAを通じた支援は世界トップレベルであることについては疑う余地もないが、逆に中身の部分、質的な部分への貢献という点、それからアクター、すなわち専門性や専門集団がどの程度いるかという点ではやはり遅れをとっており、ODAの額に対してなかなか追いついていない。次回以降の議論になるが、今後の課題として日本が国際貢献、復興支援、平和貢献でどのようなことをなし得るかということについて議論していく必要があると考えている。また国際協調を日本が戦後非常に大事にしてきたという指摘があったが、私も強調すべきと考えている。
    同時に今後の和解のところで触れられると思うが、日本は確かに第二次大戦の先ほどからの議論の流れの意味でのいわゆる侵略的な行為をしたということもあるが、日本も日本で原爆などにより市民が犠牲になったという経験も踏まえて、これに対して日本はどういう立場で臨んできたかということも盛り込んで、日本のスタンスを示すことができるのではないかと考える。
    ○本日の議論は、北岡先生と奥脇先生のプレゼンテーションを含め、結論を出すための議論ではなく、最初の出だしの部分において確認しておかなければならないこと、すなわち21世紀を見るためには最初の部分、20世紀を忘れてはいけないという話であったと考える。20世紀の世界の歴史には、光の部分と陰の部分があり、20世紀の光り輝く部分を取り上げるとすれば、経済発展、自由貿易の進展、戦争の禁止、人権意識の浸透、民主主義の伝播、アジア・アフリカ諸国の独立、冷戦の終焉、また、環境意識の進展、女性の躍進等がいろいろないいことが光の部分としてはあったと思う。
    一方、20世紀の陰の部分とは、その真逆のことが起こってしまったということである。二度に亘る世界戦争があったこと、それだけではなく、幾多の戦争や内乱、あるいは人種差別、自由・思想の統制などの人権蹂躙もあり、また、大恐慌が様々な影響を及ぼしたことも事実であり、他民族の支配や植民地化が20世紀には激しく行われたということも事実である。公害と環境破壊、男女差別そういうものも20世紀の陰の部分として挙げられると思う。
    総理からご諮問されたもう1つの点、これが本来の点かと思うが、日本が汲むべき教訓について一体どういうものがあるかといえば、平和、法の支配、人権の尊重、民主主義、民族自決、自由貿易。そして、そのすべての前提は、人間の社会では、暴力ではなく、人々の同意やコンセンサスを以って、話し合ってルールを作っていくという方向に動いて行っていると考えてよいのではないかと考えている。
    これから先を考えるとき、本日の議論そのものは、結論を出したり、言葉を定義したりするための議論ではなく、現実に20世紀に何が起こったかということを整理し直していただいたということだと思う。
    (5)閉会にあたり、世耕官房副長官から、北岡座長代理、奥脇教授による説明、委員からの意見に感謝し、次回会合においても活発な議論を期待する旨の挨拶があった。
     

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